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百笑一気 ~笑顔が好きだから~

早期退職して長野県で晴耕雨読の生活をしています。第二の故郷は中国上海です

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介護 Vol.3 ~父晩年 後編~

2018年12月3日月曜日の朝、楽しかった週末の麻雀やラグビーを振り返りながら会社へ向かって運転していた時、姉から電話がかかってきました。ん?何も話さない、間違いか?と思っていると電話の向こうでヒクヒクと聞こえやっと出てきた言葉が「死んでるーっ」。姉も動揺していて話にならないのですぐに戻ると伝え電話を切りました。既に会社の近くまで来ていたので会社まで行ってパソコンと電話を持って再び車に乗り込みましたが、すぐには信じられず、不謹慎にもまた俺の楽しみを打ち消しやがってと思いながら運転していました。

家に着くと布団に横たわり、冷たくなった父の体が。昨夜も自分で食事をし、風呂に入り普通に生活していたようですが、朝なかなか起きてこないので起こしに行ったら布団の中で既に冷たくなっていたようです。どうして良いかわからず病院に電話したらまず救急車を呼んでくれと言われ救急車を呼び、そこで搬送不要の判断がされました。突然の死だったので救急隊員の方が警察へ連絡し、検死。主治医の先生も来てくれ死因はくも膜下出血と診断されました。

救急隊員の方、警察の方、主治医の先生など大勢の方が家に出入りして落ち着いた時には午後になっていました。姉と冷たくなった体を綺麗にして着物に着替えをしましたが爪を切っているときには涙がとまりませんでした。というのは少し前に父が足の爪を切ってくれと言ってきたのですが、私はTVかパソコンに夢中になっていて「後にしてくれ」と冷たく突き放し、そのままになっていたのです。耳が遠くなって会話がままならなくなっても根気よく会話していた姉に対し、私は晩年はあまり話しかけることもせずに最後の会話は何だったのか思い出せません。最後に一緒に食事をした11月24日、地元で美味しいと評判の洋ナシのケーキを買って一緒に食べた時、昔父が植えた洋ナシの木があったので「洋ナシ作っていたの覚えているか?」と聞こうと思ったのですが、会話にならないだろうと思って聞くのをやめたことだけは記憶に残っています。

5年程度の父の面倒を見た生活でしたが、今思えば私の何倍も大変で長い介護生活を送っている方もいらっしゃるのに、もう少し優しく対応すればよかったと後悔しています。振り返って良く考えると、上海から帰ってすぐ最初の肝性脳症の発症、東京から帰ってすぐ突然の死、私が楽しむと何か起こり、水を差されたと思っていたのですが、これも私が楽しんでいる間は我慢してくれていたんだなと思います。

母がまだ生きていた頃、上海赴任を終えて帰ってからは毎年1回、温泉旅行に連れていったのですが父は疲れた疲れたと言うばかりであまり喜んでおりませんでした。そんな父が喜んでいたのは私が農作業の手伝いをしている時だったと思います。孝行したいときに親はなし、まさにその通りになってしまいましたが、少しでも供養になればと思い最後に切った爪をお守り袋に入れ農作業をするときにポケットに入れ一緒に作業をしている現在です。