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百笑一気 ~笑顔が好きだから~

早期退職して長野県で晴耕雨読の生活をしています。第二の故郷は中国上海です

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百姓日記 Vol.23 ~サンシュユ~

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サンシュユ

春遅い長野県にも春が訪れ色々な花が咲くようになりました。地方新聞に公園のサンシュユの花が見ごろと写真付きでのっていました。あれ?この花うちにもあるなと思い現物を見ながらネットで調べたらやはり山茱萸サンシュユ)でした。

別名は山グミといい秋には赤い実を付けるそうです。グミと言えばぷにょぷにょのお菓子ですが、私の住む地方では昔からグミという木の実がありました。確かに我が家の木にも秋にあると赤い実がついてました。

この実は漢方薬の一種のようで疲労回復、滋養強壮、腎臓にもいいようです。勿体ないことにこれまでこの実は熟して地面に落ちているだけでした。今年は時間があるので収穫して果実酒を作ってみようと思います。

 

百姓日記 Vol.22 ~リンゴ消毒~

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リンゴ

リンゴの芽も膨らみ始め今年1回目の消毒をしました。まだ葉も出ていませんが越冬したダニ防除や腐らん病などのリンゴ特有の病気の発生を抑えるためこの時期から年間10回以上消毒をします。

農作業は基本的に3Kの仕事なのですが、特に大変なのが消毒です。収穫は金額にも換算できて遣り甲斐あるし、非生産的な草刈りもビフォー・アフターがはっきりして終わった後は気分がいいものです。ところが消毒はやった後も見た目は変わらず、ホースが引っかかってイライラしたり、風向きによって農薬まみれになったり、できればやりたくない作業です。

大規模農家ならタンクのついたスプレーヤーという機械で散布するのですが、自家消費分だけ栽培する我が家では高価な機械を買うこともできず、しかも斜面のリンゴ畑なので背負い噴霧器で消毒します。

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噴霧器

15リットルの消毒液を入れると20kg以上。これを担いで斜面に生えているリンゴの木1本1本に消毒しますが、体力無いとできません。リンゴ畑は2か所あり1か所は自宅の前なので良いのですが、もう1か所は隣の家の庭先を通って200mくらい離れており消毒液がなくなるため2往復しなければなりません。

年取ってこの作業ができなくなったらリンゴ栽培も終わりですが、この頃にはドローンで座って消毒ができるようになっていたらありがたいですね。

ゴルフ Vol.9 ~境川カントリー~

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堺川CC 甲府盆地

三連休最終日の22日、山梨県境川カントリーで二日連続でプレーしました。前日の三井の森蓼科カントリーは標高1200mでしたが、甲府盆地を見下ろすこのコースは標高高そうなのですがおそらく500mくらいだと思います。気候も全く違ってコース内にはモクレンや桜の花が咲いていました。

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モクレン

この日は学生時代の友人夫妻ともう一人の友人とプレーしました。ここ10年いつもこの4人でプレーしていたのですが、昨年友人の奥様が動脈乖離になってしまい約1年ぶりの参戦でした。最初は集中治療室で絶対安静だったようですが復帰できてなによりです。

最近tetsuteさんのブログのレッスンで練習場では調子が上向いているのですが、この日も良くも悪くもないスコアで、最後のショートではシャンクが出て後味の悪いプレーになってしまいました。前日の疲れもあり後半は下半身の踏ん張りがきかなくなってしまい、ドライバーも当たりが悪く、鍛え直しが必要だとつくづく感じました。長野県で桜が咲くころにはゴルフも開花してほしいものです。

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ゴルフ Vol.8 ~三井の森蓼科カントリー~

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三井の森

コロナウイルスの自粛ムードが漂う3連休でしたが天気も良く2ラウンドしました。21日は地元の友人と三井の森蓼科カントリークラブで。冬場はクローズし4月から本格オープンなのですが3月はプレオープンで食事も入浴もなくスル―で6100円。このコースか隣の姉妹コースは王貞治さんも会員になっている名門コースなので手入れも良く非常にお得でした。

良くも悪くもないスコアだったのでコースから見えた八ヶ岳を紹介したいと思います。地元の民話では大昔八ヶ岳は富士山より高くそれに不満を感じた富士山に蹴飛ばされ八つに裂けて富士山より低くなったという言い伝えがあります。峰は八つ以上あり、どの峰を八つに数えるかは正確には決められていないようです。

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天狗岳・横岳・赤岳・阿弥陀岳

左の写真が八ヶ岳最北端の天狗岳。右の写真の左側の横に長くギザギザしている稜線が横岳。八ヶ岳の中では一番岩場が多い難所で鎖を掴んで登るところが何か所もあります。右側に高い峰がありますがよく見ると山頂が二つ見えます。高く見える一番右の峰が阿弥陀岳2805m、左側に半分だけ見えるのが八ヶ岳の主峰赤岳2899mです。長野県側からは赤岳が遠くにあるので阿弥陀岳より低く見えてしまいます。

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硫黄岳・峰の松目

この写真の奥に白く見えるのが硫黄岳。この峰の北側には有史以前の噴火でできた爆裂火口があり断崖絶壁になっています。手前の尖っているのが峰の松目。なぜかこの峰だけ名前に山とか岳がついていません。

私の通った小中高の校歌にはどれにも八ヶ岳がでてくるように地元では観光や信仰において代表する山で、中学の時には登山があり、硫黄岳、横岳、赤岳を縦走しました。硫黄岳の爆裂火口は吸い込まれそうでとても迫力があったのを覚えています。たまに甲子園で流れる山の反対側にある佐久長聖高校の校歌にも「八つの群山(むらやま)」と八ヶ岳が歌われています。

良い天気だったので八ヶ岳と反対側の山の向こうに真っ白な乗鞍岳も見えました。馬の鞍に形が似ているとついた名前の通りの形ですね。この乗鞍岳八ヶ岳も火山で最近は噴火していませんが、数年前に被害を出した御嶽山も1979年に有史以来の噴火をしており、最近は自然災害も多く何が起こるかわからないので引き続き穏やかでいてくれることを願います。

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乗鞍岳

 

介護 Vol.3 ~父晩年 後編~

2018年12月3日月曜日の朝、楽しかった週末の麻雀やラグビーを振り返りながら会社へ向かって運転していた時、姉から電話がかかってきました。ん?何も話さない、間違いか?と思っていると電話の向こうでヒクヒクと聞こえやっと出てきた言葉が「死んでるーっ」。姉も動揺していて話にならないのですぐに戻ると伝え電話を切りました。既に会社の近くまで来ていたので会社まで行ってパソコンと電話を持って再び車に乗り込みましたが、すぐには信じられず、不謹慎にもまた俺の楽しみを打ち消しやがってと思いながら運転していました。

家に着くと布団に横たわり、冷たくなった父の体が。昨夜も自分で食事をし、風呂に入り普通に生活していたようですが、朝なかなか起きてこないので起こしに行ったら布団の中で既に冷たくなっていたようです。どうして良いかわからず病院に電話したらまず救急車を呼んでくれと言われ救急車を呼び、そこで搬送不要の判断がされました。突然の死だったので救急隊員の方が警察へ連絡し、検死。主治医の先生も来てくれ死因はくも膜下出血と診断されました。

救急隊員の方、警察の方、主治医の先生など大勢の方が家に出入りして落ち着いた時には午後になっていました。姉と冷たくなった体を綺麗にして着物に着替えをしましたが爪を切っているときには涙がとまりませんでした。というのは少し前に父が足の爪を切ってくれと言ってきたのですが、私はTVかパソコンに夢中になっていて「後にしてくれ」と冷たく突き放し、そのままになっていたのです。耳が遠くなって会話がままならなくなっても根気よく会話していた姉に対し、私は晩年はあまり話しかけることもせずに最後の会話は何だったのか思い出せません。最後に一緒に食事をした11月24日、地元で美味しいと評判の洋ナシのケーキを買って一緒に食べた時、昔父が植えた洋ナシの木があったので「洋ナシ作っていたの覚えているか?」と聞こうと思ったのですが、会話にならないだろうと思って聞くのをやめたことだけは記憶に残っています。

5年程度の父の面倒を見た生活でしたが、今思えば私の何倍も大変で長い介護生活を送っている方もいらっしゃるのに、もう少し優しく対応すればよかったと後悔しています。振り返って良く考えると、上海から帰ってすぐ最初の肝性脳症の発症、東京から帰ってすぐ突然の死、私が楽しむと何か起こり、水を差されたと思っていたのですが、これも私が楽しんでいる間は我慢してくれていたんだなと思います。

母がまだ生きていた頃、上海赴任を終えて帰ってからは毎年1回、温泉旅行に連れていったのですが父は疲れた疲れたと言うばかりであまり喜んでおりませんでした。そんな父が喜んでいたのは私が農作業の手伝いをしている時だったと思います。孝行したいときに親はなし、まさにその通りになってしまいましたが、少しでも供養になればと思い最後に切った爪をお守り袋に入れ農作業をするときにポケットに入れ一緒に作業をしている現在です。

 

介護 Vol.2 ~父晩年 中編~

肝性脳症。50年以上生きてきて聞いたこともなかった病気ですが、これは肝機能が低下して血液中のアンモニアが増え脳に達すると発症し、意識障害や異常行動を起こす病気で晩年の父は何回か発症するようになりました。

2017年10月、上海で楽しい時間を過ごし実家に帰ったところ代わりに父の面倒を見ていてくれた姉が「おかしくなった、どうしよう」とうろたえていました。普段は無口な父がやたら饒舌になり、そのうち「葬式だからお客さんにお茶を出せ」とか訳のわからないことを言いだし、収穫してあったカボチャに向かってお礼を言いだしたりしたようです。確かに顔つきが変わって異様な雰囲気でした。

姉とこれからどうするかしばらく相談し父の様子を見に行ったらいるはずの部屋は空っぽ。外に出たと思い庭や車庫や農作業小屋まで探しても見つからず、ようやく普段は使っていない2階の部屋の押し入れにいるのを見つけました。なんと押し入れの中で新聞紙をひたすら引きちぎっており、見つけた時は妖怪が「見たなぁ~」という感じでこちらを向いてその異様さに背筋が寒くなりました。普段寝てばかりだったのに急に動き回ったせいで夜には立ち上がれなくなって様子がおかしくなったため、救急車を呼んで病院に運び、肝性脳症と診断され入院しました。人に迷惑をかけないよう個室に入れてもらったのですが夜中に部屋を出たまま戻れなくなり、あちこちの部屋のドアを開けて迷惑をかけたようで、誰か付き添うように言われ姉と交代で病院に寝泊まりしました。幸いこの病気はずっと続くものではなく鎮静剤や点滴をうけて症状は治まり1週間くらいで退院できました。

しかしまた再発するので一人にすることは危険と言われ、専業主婦の姉が東京から来て1ヶ月のうち3週間面倒をみてもらい、1週間は介護施設にお願いすることにしました。その後も肝性脳症を何回か発症し、介護施設から手に負えないので病院に連れていってくれと電話が入り急いで会社から戻ったこともありました。ただ私は姉と介護施設のおかげで父の食事を作ることも真夜中に起こされることもなくなり逆に楽になっていました。

最初の肝性脳症発症から1年が経過した2018年12月、姉に父をお願いして毎年楽しみにしているラグビー早明戦を東京に見に行かせてもらいました。前日は私と友人VS息子と会社の若手で麻雀早明戦を行い夜は二人の娘も合流し、楽しく飲んで充実した週末を過ごしました。麻雀惨敗、ラグビー惜敗にもかかわらず、楽しかった時間を思いだしながら会社へ向かって運転していた月曜日の朝、携帯が鳴りました。 ~後編へ続く~

 

 

介護 Vol.1 ~父晩年 前編~

私が読者になっている悶々父さん(yoshi-tankunさん)が亡きお父様のことを綴ったブログ。ご家族の優しい対応にとても感動し、私も亡き父について自分の反省にために文章にしたいと思い「介護」のカテゴリーを作って何回かに分けて書きたいと思います。

2013年5月母が癌で他界しました。74歳のちょっと早い死でした。父より9歳若くまさか父も先に亡くなるとは思っていなかったと思います。息を引き取る時は家族で見守ったのですが父は涙を流すこともなくいつも通りでした。でもショックだったんでしょうね。80歳過ぎても畑に出て、世間では働かず怒られる人が多い中、母からいつもそんなに働くなと怒られていた人間がその日から家に籠るようになっていきました。「女やもめに花が咲き、男やもめに蛆がわく」まさにその通りになってしまいました。

昭和一ケタ生まれで台所に立ったことは全くなく、スーパーに買い物にも行ったことがなかったので、私が家族と離れて同居し食事を作るようになりました。家族と離れるといっても自宅から実家は歩いて行ける距離なので毎日出勤前には自宅に行き子供の顔を見ることができましたが・・・。

父は母が亡くなる前に自分で植えたトルコキキョウの苗に水をやることもなくなり、畑に出ることも極端に少なくなったので、私が無理やりパセリの出荷を手伝わせたり、ボケないよう気を使っていたのですが、80代半ばになり色々と問題が出てきました。

夜と昼の区別がつかなくなり明け方の3時とか4時ころ「飯はまだか」と起こされるようになり段々とその頻度が多くなっていきました。起こされて怒鳴りつけると「夕飯じゃねぇだか」と布団に戻り、私は怒鳴って心拍上がって朝まで寝付けない始末。また大食漢だったので一日分用意したご飯を全部食べてしまい私が帰った時には炊飯器がカラになっていたり、耳が遠いのでテレビをつけると音量MAXで大音響で驚かされたり、段々と下着も汚すようになって手がかかるようになっていきました。

また台風が近づいたある日、家から少し離れたビニールハウスのビニールが剥がれてしまい、近所の方が家に知らせに来てくれたのに父は応対することもなく(耳が遠かったので聞こえなかったのかもしれませんが)妻を通じて私に連絡が来て残業を切り上げ会社から帰り夜中に懐中電灯をつけて横殴りの雨が降る中ビニールを切断し応急処置をしたこともありました。作業は終わったのは深夜12時過ぎ。びしょ濡れになって家に戻ると父が悪いわけではないのになぜか父に対して怒りがこみ上げてきました。段々と父に対してつらく当たるようになり、本当に早く死んでくれと思ったり、口に出したりするようになってしまいました。

とはいっても父は自分で食事、排せつ、入浴ができたので介護と言えるものではなく、東京に住んでいる姉も1ヶ月のうち1週間は交替してくれ、今思えばこの程度で大変と言ったり怒ったりしてはいけなかったと思います。

こんな生活を4年続けた2017年10月。姉に父を頼み毎年楽しみにしている上海里帰りをして戻った時。普段は冷静な姉が泣いてうろたえていて、何が起こったのかわからないまま上海での楽しい時間が吹き飛んでしまいました。~中編へ続く~